2011年12月5日月曜日

言い勝ち功名

格言さんぽ5

「言い勝ち功名」

読み・・・いいがちこうみょう
意味・・・言葉の多い方が勝つということ。多少筋の通らない事でも声高に突っ込めば、意見はとおり、いい意見でも黙っていれば誰にも伝わらない。

「言い勝ち功名」。簡単に言い換えれば「言ったもん勝ち」ということです。自分自身の周囲を見回しても、「言ったもん勝ち」の場面によく出くわします。どうです皆さん。思い当たる節が、ごまんとあるでしょう?
レベルの低い「言ったもん勝ち」劇場を、一幕。
ここに饅頭が6コ、人間が8人。みんな食べたいが。さてどうする。
強引A子「2つ足りないわね。でも私、お昼ご飯あまり食べなかったから、1つもらうわ」
普通B子「なんで。均等に分ければいいんじゃない?
性悪C子「男子はいらないんじゃない?ねぇGH男さん」
普通D子「男子だってたべたいわよ。ねぇ」
性悪E子「だったら、D子さんが分けてあげれば?
遠慮F子「足りないんだったら私、いいわ」
鈍感G男「その饅頭スゲェ旨いんだぜ」
平等H男「饅頭1コずつを4等分にして、24切れ。みんな3切れずつだよね」
A子「何それ、誰が切るの。なんで3つ。よくわからないし。ダメよ」
  あまりにレベルの低い言動に、H男はあきれて黙る。
B子「もぅ、だったら、みんなでジャンケンで決めようよ」
  有耶無耶のうちになぜかジャンケンに。が、A子負ける。
A子「やっぱり、ジャンケンなんておかしい。お腹が一番好いている私が食べるべきよ」
E子「そうね。やっぱりスィーツは女子が食べるっていうのが常識よね」
C子「男子はいらないでしょ」
G男「僕だって食べたいよ」
  見かねたF子とH男が「じゃぁ、私は、僕は、いいよ」と。
なんてことで、気の優しい気遣いのできるF子と、普通に頭の良いH男が饅頭に当たらない結果に。
まぁ、ちょっと極端なおバカさん劇場になっちゃいましたが。こんなことって、結構あるんです。気遣いのできる人、正当な意見をもった人が結局、報われないって。
ところで、「功名」とは、辞書で調べると「手柄を立て名をあげること」。
つまり、この格言は「どんなヒドイ意見でも声高く押し通していれば、それが手柄となり名声が高まる」とも言えますね。まるで政治の世界ですね。会社の会議ですね。世の中の仕組みですね。こんな格言が生まれてこない世の中になりますよう。

2011年11月22日火曜日

愛多ければ・・


格言さんぽ4

●愛多ければ憎しみもまた多し

意味・・・愛と憎しみは表裏一体で、愛は憎しみにも変わる。

恐いですね。恐ろしいですね。淀川長治さんなら「この作品は、愛と憎しみの映画。まぁ、なんて恐いんでしょう。なんて恐ろしいんでしょう」な〜んて言ったんでしょうね。「可愛さあまって憎さ百倍」ってのも、同じようなことを言ってるんでしょう。結局、愛は恐いということです。でも、「愛」って、こんなんなの?
「汝、敵を愛せよ」とは『新約聖書』の言葉。つまり、この格言の意味から推すると、「敵を憎んでもいい」ということ?・・・そんな事が、聖書に書かれている筈はないですよね。
昔、こんな事を聞きました。「恋」と「愛」の違いは、「恋」は恋愛のことで、有り体に言えば、男女間の仲に成り立つ勘違いのような物。「愛」は家族にも、世界中の誰にも注ぎ、注がれることができる、尊いもの、と。ならば、げに、「愛」は尊いのです。
広辞苑では、「愛」は1.親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。2.男女間の愛情、恋愛。かわいがること。めでること。大切にすること。・・・8.キリスト教で、神が人間に幸福を与えること。などとあります。
なんだかピンときません。語句を説明するのはなんと難しいことでしょう。でも、言葉の説明から感じ取るよりも、人として生まれてきたからには、「愛」というものは、実際の体験で理解できることでしょう。
ついでにちょっと広辞苑にいちゃもんをつけるとすれば、この中の「いつくしむ」って何かと調べてみると。「愛する。かわいがる。大切にする」とあります。「愛」の説明と同じじゃないの?なんて思っちゃいます。さらに、「愛は人間や生物への思いやり」とあるのは、人間や生物だけでなく、物質や観念に対しても愛はあるんじゃないの、とも思ってしまいます。愛車や愛社なんて言葉もありますしね。
それはともかく、さらに、つらつらと考えるに、「愛」に限らず、何事においても、期待が大きいほど、また信じれば信じるほど、その反動が大きいということなんだろうな、と思います。身近であればあるほど、「裏切られた」と感じた時の「憎しみ」は、激しいのでしょう。
さすれば、信じない、期待しない、望まないが一番いいのでしょうか。
いえいえ、そんな事はありませんね。
この信じる、信じない、期待する、期待しないの、微妙なバランスが人間関係の妙なのでしょう。経験に応じて身に備わるものだと思います。それができない人が、愛が憎しみに変わってしまう。テレビドラマなら、冷たくされて憎んで刃物でブスッって、刺しちゃうんでしょうね。
でも、反対に、憎しみって、愛にも変わるんでしょうか。
願わくば、それだけの一方通行であってほしいですね。ってね。

2011年11月16日水曜日

愛多き者は即ち・・・

「愛多き者は即ち法たたず」

意味・・・上に立つ者が愛情をかけすぎると下の者は従わず、法が乱れる
読み・・・あいおおきものは すなわち ほうたたず

これは紀元前250年頃の中国の春秋・戦国時代の思想家、韓非の『韓非子』という著書からの格言です。韓非は諸子百家・法家の代表的な人物のひとりで、荀子の「性悪説」の影響を受けたとされています。その立場は、孟子が唱えた「性善説」、徳治主義をとなえる儒教とは対立し、法治主義をとりました。つまり、「人間は生まれつき悪者なんやから、徳や善なんかで抑えて、言う事を聞くはずおまへんわ。法でしばって、刑罰や金で償わせんとアカン。世の中、罰とカネや。今はなき孟子はん、生ぬるいこと言うてたらアキマヘンで」といったかどうかは知りませんが、そんな思想だったようです。
現代風に、すこぅし飛躍的に解釈すると、「やさしくするほど、人はつけあがり、弱いものや徳のあるものまでをも騙したり、おとしめたり」・・・。「庇をかして母屋をとられる」「恩を仇でかえす」「飼い犬に手をかまれる」といった同じ範疇にはいるような格言もゴロゴロ転がっています。
むかしも今も、変わらず、「必要以上につけあがる人間はどこにでもいる」んですね。
それって悲しいことですよね。
この格言が現代にも理解され、十分に通じるということは、戦争が日常茶飯事に行われていた2000年以上も前の時代と、人間の本質が変わっていないということの証明みたいなもんです。さらに日本にも、中国にも同じような格言があるということは、どちらの国にも似たような人間がウジャウジャいるということでもありましょう。
日中間に限らず、日米、日韓、国内、近隣や家族のいざこざさえも、人の本性を見れば、お互いに似たようなものだとすれば、やってられないですよね。
つまり、この格言の、意味はともかく、ここから学べることは、
「つけあがるタイプの人間は甘やかしていれば、ますますつけあがって、やがて犯罪にまでおよんでしまう」から、キチンと人間を見極めて、叱るべきところは、叱りなさい。と。人を導く基本といわれる「5つ褒めて、3つ叱って、7つ教える」というような教書にも通ずると思われます。勘違いのやさしさだけが人の為ではないんでしょうね。
私は、孟子の徳治主義を支持しますが。甘いんでしょうか。

2011年11月11日金曜日

合縁奇縁


合縁奇縁(あいえんきえん)
意味・・・お互いの相性はすべて縁によるものだということ。

こういう格言をみると、縁とはそもそも、いったいなんなんだ、という疑問にブチあたります。広辞苑でしらべてみると「人と人とのつづきあい」「婚姻の関係」「原因をたすけて結果を生じさせる作用」「直接的原因(因)に対して間接的な条件」などとあります。でも、これではよく理解できません。
そもそも縁は、仏教用語で因縁・縁起のことを言うようです。この意味合いを究極に縮めて言うと「すべての物は単独で成り立っているのではなく、相互に関係しあって成り立っている」ということ。さらに縮めると、「万物は相互に影響を及ぼし合う」ということなんでしょう。
悟りをひらいた釈迦によれば「一般の人には知り難く悟り難いものである」ということのようです。我われ、凡人には深層の意味、真理は分かろうはずもなさそうです。
この格言をもう少し踏み込んで解釈すると、「人と人、また人と物などすべてには相性(関係)があり、妙に気があったり、合わなかったり、それには何らかの原因があり条件を付加し、結果として生じている現象なんだよ。一般人には不思議で知るすべもないようなものだけれど、努力や修行によって、より良い方向に進められるものなんだ」ということのようです。つけ刃の知識ではこれぐらいの解釈が目一杯でしょうか。 まぁ、そういうことにしておいてもらいましょう。
縁を使った格言はこのほかにも、「縁と浮世は末を待て」、「縁なき衆生は度し難し」、「縁に連るれば唐のもの」、「縁は異なもの味なもの」などあるようですが、これらをつらつらと眺めていると、縁とは「人が知るよしもない、不思議で暖ったかい、なくてはならない繋がり」と解釈しても構わないような気がします。合縁奇縁の「奇」は不思議なという意味も持っています。
ところで社会学で「予言の自己実現」というような考え方があります。
たとえば「私は将来歌手になる」と目標を心に描いていると、やがてそれが実現するというものです。因縁でいえば因にあたるものかも知れません。そう(予言)することにより、意識的もしくは無意識のうちにも縁、つまり毎日楽譜を見ていたり、ピアノを習いに行ったり、歌をうたったり、そんな縁をつくり出しているのでしょう。
キリストもしかり「求めよさらば与えられん」と残した教えもそういった感覚でしょう。
仏教・社会学・キリスト教、それらにも共通するものが感じられます。
合縁奇縁、じつは「目標をたてて努力すれば、叶えられないことはない」ということなのかもしれませんね。

2011年11月9日水曜日

ああいえばこういう

格言さんぽ1

●ああいえばこういう
意味・・・他人の意見や忠告、説得に、あれこれと理屈をつけて反対し、従わないこと。

ああいえばこういう。こういえばああいう。こんな人、結構いますよねぇ。あぁ、最悪のコマッタちゃん(古い言い回しご容赦)。なんて皮肉っぽいことわざなんでしょうと皆さんは思うかもしれません。でも、こんな御仁のほうが世の中をのうのうと生きているんですね。ほんとう。
団塊の世代という言葉があるのは知ってますよねぇ。戦後間もなくから10年ほど続くベビーブームのこの世代、最大時には年間に250万人を優に超える出生者数がありました。現在このところ、107万人程度というから、倍以上の数です。
人口が多いと生きる為の競争率が高まるんでしょうか。この世代って、まさに「ああいえばこういう」世代なんです。年齢で言えば、2011年時点で60歳前後から65歳ぐらいまで。いたって、モノを斜交いに考えます。何かにつけ素直じゃない。人の揚げ足をとろうとする。自分の有利に物事を運ぼうとする。まるで、中国人のような性質をもつ人がなんと、多いことでしょう。もちろん、そうでない人も沢山いますが。
でも、そう。この社会では、人を蹴落とそうとするような人間のほうがお金が儲かる仕組みになっているから、ボクは悲しくてしかたないんですよね。「失敗は他人のせいにする」「隙あらばかすめとる」「儲けた金にモノをいわせる」。昔の日本の武士道なんてかけらもない。後ろから斬りつけるなんて、「あら、当然のことじゃあ〜りませんか」なんですね。
みなさんの回りにも団塊の世代に限らず、こんな人たくさんいるから分かるでしょう?
この社会では「ああいえばこういう」というような人間の方が、贅沢に暮らしているという流れなんですよね。憎まれっ子世にはばかるといった格言もこんなところからきているんでしょうか。ああいえばこういう、この格言、本当は「ああいえばこういう人間になればお金が儲かる」。だから、そんな人間になれ? ということだったんでしょうか。
いえいえ、そうではありません。悪はほろびる。正義は勝つ。憎まれっ子は世にはばかるが、誰からも信頼されていないんですね。普通の社会的な感覚を持つ人であれば、こんな人となるべく拘わりたくないはずです。つまり、ああいえばこういう人間は「我を通し、金儲けはできるが、信頼できるまっとうな仲間はできず、くさったままの心根を持って鬼籍に入る」ということ。
きっとそうだと思わないと、この社会を生きていけないんです。
政治家の皆さん、心の清い人が、豊かに過ごせる社会にしてくださいますよう。